<< 地球と生命の歴史 | main | 生命史的人生訓 >>

2003.07.07 Monday

地球と生命の歴史から学ぶこと

「地球史が教える若者の生き方」 原田憲一 (c)Harada, Kenichi 2002-
4.地球と生命の歴史から学ぶこと

地球と生き物の歴史を知ると、まず生き物は全て兄弟姉妹であることが分かります。40億年前にDNAの仕組みが完成して、それがそのまま我われに残っているからです。アメーバであろうとキノコであろうと、ミミズであろうと人間であろうと、みんな同じ材料と構造と機能をもったDNAを持っているので、共通の祖先をもった仲間だと言えます。全ての生き物を大切にしなければならないという宗教的な教えには、深い理由があったのです。
 2番目に、共通の祖先から生まれでた生き物が40億年間ずっと続いてきたという事実は、生命の流れが1回も途切れたことがなかったことを意味しています。途中でいったん中断し、その後新しい生き物が出てきて違う生き方が始まったのではない、と言うことです。 生命の誕生以降、いろんな生き物が現れては消え、現れては消えてきました。今までに出てきた生き物の99.9%はもう化石としてしか残っていないのですが、今もこれだけの生き物が生き延びているということは、その時々の生き物が必死になって生き延びて、生命の流れを守ってきたからです。例えば、恐竜は完全にいなくなってしまいましたが、その子孫が鳥として生き残っています。また恐竜が絶滅した時も、哺乳類の祖先は必死になって生きてくれました。植物も、大激変の中でも身を守り、なんとか種を残そうと努力してくれました。
 白亜紀末の大絶滅に相当する生物界の激変は、カンブリア紀以降、十数回あったとされていますが、あらゆる生き物は、どんな逆境にあっても、常に生きようと努力してくれた。その努力が40億年続いてきたからこそ今我われが生きているわけです。当然我われも40億年の歴史をもった「生命」を次の世代に受け渡す義務があります。だからこそ君たちは、どんな逆境にあっても、まず生きていくということが重要なのです。

 3番目に、1種類から始まった生き物が今や6000万とか8000万という種類に増えてきたのは、お互いに滅ぼしあうことがなかったからです。むしろ、もっと仲間を増やしていこうということで、生き物が共存共栄してきた結果です。
 ところが我われはすぐ「自然界は弱肉強食の競争社会である」と言いたがります。生存競争では常に強い者が勝ち、弱い者は負ける。人間社会でも強い者は勝って当然、弱い者は負けて当然だ、と。
 例えば、1個の卵子には1匹の精子しか受精しないという生物学的事実を、厳しい競争を勝ち抜いた精子だけが受精に成功する。だから生まれる前から競争は始まっている。と解釈する人がいますが、間違いです。その証拠は、最近増えている不妊で、環境ホルモンやストレスによって男性の精子の数が減ったことが原因の一つにあげられています。卵子にはたった1匹の精子しか受け入れられないのに、普通の成人男子の場合、一度に2億匹以上も放出されます。壮大な無駄のように思えるのですが、それが1億匹程度に減っただけで受精しにくくなり、5000万匹になるとほとんど受精できない。この現象は生存競争では説明できません。ちょうどエベレストの山頂に登るのはたった1人か2人ですが、決して途中で仲間を出し抜いたから山頂に立てたのではない。大勢の仲間が集まり、ベースキャンプから始まって第3、第4キャンプまで、次々に助けてくれたからこそです。
 それと同じように、精子も仲間で助け合って最後の1匹を卵子のところまで送り届ける。仲間が減ると当然、支援の力は弱くなるので卵子に近づけない。だから、生まれる時から競争ではなくて、生まれる時も仲間の助けがあってはじめて、自分は生まれてきたということになる。
 自然界が生存競争で、常に強い者が勝つという、世の常識は全く間違いです。むしろ「一人勝ち」は自然界では起こらない。一人勝ちすると、仲間がいなくなって立ち枯れてしまうからです。「一人勝ち、命の掟が許さない」ということです。

4番目に、生き物は常に多様性を求めてきました。有性生殖の仕組みを利用して、個体にしても種にしても生き物全体にしても、性質を多様化し、種類が増えるように努力してきた。すなわち個性を増やそうとしてきました。
 最近、利己的な遺伝子という仮説がはやっています。遺伝子は非常に利己的で自分のことしか考えない。だから遺伝子は自己の遺伝情報だけを子々孫々に伝えようとする、というイギリス人のドーキンスが唱えた仮説です。(註9)強い遺伝子が残り、弱い遺伝子は滅びると言いたいのでしょうが、考えてみると、どんな利己的で強欲な遺伝子でも、自分の遺伝情報の半分を捨てないかぎりは受精できない。自分の遺伝情報の半分をあきらめないと子どもが残せない。逆に言うと、どんな親でも自分と同じ子どもを生むことはできない。
例えば、お父さんは背は高くてハンサムだし頭もいい、記憶力も抜群。だから、自分と同じような子どもができたら素晴らしい。お母さんはお母さんで、チャーミングだし愛想もいい、映画スターにしてもおかしくない。だから、自分にそっくりな娘ができたら言うことがない。と二人でいくら思っていても、それぞれの遺伝情報の半分は捨てないと子どもは生まれてこない。しかも、どういう情報を捨ててどういう情報を残すかは両親とも決めることはできない。
だから、子どもは親と違って当たり前。半分似てくれれば御の字です。お父さんはこんなに背が高いのにと言ったって、子どもの背が低いからこそ生き延びるチャンスがあるかもしれない。あるいは、お父さんは酒飲みでも、子どもは一滴も飲めない。しかし、それが身を守ることになるかもしれない。
そういうことで、人間は生まれる前から個性を持っているわけです。

註9 リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店

Trackback URL


Comments

Comment form